清水富美加「ぺふぺふ病」と人間疎外

2017年2月11日に突如として「出家」を宣言した清水富美加さんに関する話題が、最近のお茶の間を賑やかし続けている。17日には「全部、言っちゃうね」という告白本も出版されている。彼女の言動や周辺の動きは世間を驚かせ続けているが、本稿では一連の報道のなかで登場した「ぺふぺふ病」というものについて考えてみたい。

2016年12月8日に出版された清水さんのフォトエッセー「ふみかふみ」のなかに、「ぺふぺふ病」というタイトルのエッセーが収録されている。以下、そのエッセーを引用する。

<それは感情に起伏がなく これといった悩みもなく 余裕があるような というといいように聞こえるが ガムシャラな感じがなく やる気が感じられず 生きている感じがしない というと悪いように聞こえるが がんばっていないわけでもなく そして調子に乗っているわけでもなく そう、擬音にしたら ぺふぺふしているような状況の 一種の病>

一連の報道に際してこの文章に接した私は、瞬間的にある概念が脳裏に浮かんだ。20世紀の思想や国際政治におそらく最も大きな影響を与えた19世紀の哲学者、カール・マルクスが提唱した「人間疎外」である。人間疎外は、若い頃のマルクスがパリ滞在中に執筆した「経済学・哲学草稿」の第一草稿四節「疎外された労働」にそのエッセンスが表れている。このなかでマルクスは四つの疎外を指摘している。労働生産物からの疎外、労働に対するやりがいからの疎外、類的疎外、人間(他人)からの疎外の四つだ。これらに共通の現象はあらゆるものと「疎遠になること」であり、その結果「人間らしさ」を喪失していくということであろう。

むろんマルクスは「ルンペンプロレタリアート」という概念を提唱しており、それとプロレタリアート(賃金労働者階級)を明確に区別している。マルクスの言うルンペンプロレタリアートの定義自体は明確ではないが、ジプシーを想定していたと言われている。ジプシーとはヨーロッパに現れた移動型民族を指す語で、芸能や占い、魔術、ばくちなどで金を稼ぐ者が多かった。従って芸能界に所属していた清水さんは、マルクスの定義どおりのプロレタリアートではないだろう。だが、テレビ文化とともに急速な発展を続けてきた現在の芸能界は、その初期の頃とは異なり極めて分業化の進んだ構造となっている。そうした環境の中で、清水さんは芸能活動のすべてに対して疎遠(疎外)を感じたように私には思える。

ところで、昔の芸能界には就職で失敗した者や貧困のために学歴のない者、ルーティンワーク的労働に馴染めなかった者などといった、社会秩序の周縁的な存在を受け入れる役割を果たしている面があった。中世において「河原者(かわらもの)」と呼ばれた被差別民たちに能や歌舞伎といった伝統芸能の始まりがあることを考えれば、これは当然のことである。しかし、先述のように現在の芸能界はその成熟とともに分業化が進展しており、それに伴い高学歴者や裕福な家庭の出身である者といった、周縁的でない者が相対的に多くを占めるようになっているように思える。これは日本社会における周縁的な存在を受け入れる場の減少を意味し、格差の固定化を進行させる効果があると言えよう。身分制の時代でなくとも周縁的な存在は一定数発生するのであり、それを受け入れる余地のない社会はダイナミズムを喪失してしまうのではないだろうか。

それはともかく、人間疎外の現象から人間を解放するための方策としてマルクス共産主義の実現を主張した。人間疎外は資本主義社会特有のものだと、マルクスは考えたからである。しかし、共産主義を実現しようとしたソビエトをはじめとする社会主義諸国の実態から言えば、周知のとおり資本主義諸国以上の人間疎外を生じさせたというのがその帰結であった。従って、マルクスの解は人間疎外に無効であったと言えるだろう。だが、そうであるとしても人間疎外が無くなったわけではないのであり、なんらかの解決策を必要とするのには変わりないのである。

私は人間疎外を完全に解消する方法はないと思っている。ただ、いくらかそれによる苦しみを緩和する術はあるのではないかとも思っている。結局、人間疎外がなぜ人を苦しめるのかと言えば、あらゆるものと疎遠になることによる虚無感と社会の構造にがんじがらめにされていることによる無力感にあるように思える。この虚無感、無力感を緩和するためには、人が自己肯定感を持てるようにすることが必要なのではないか。

自己肯定感とは、その多くを「もうひとりの自分」、つまり自分を評価する自分による評価が満足できるものであるか否かに依存するものである。また、それに併せて他人や社会から承認されているかといった要素も複合的に絡み合い、自己肯定感の有無を形成している。人類の労働時間は近代を迎えて以来、飛躍的に増加してきた。従って、労働時間は現代人の人生の多くを占めるようになっている。つまり、それだけに労働の場における自己肯定感は人生全体における自己肯定感を左右する中心的存在となっている。そしてだからこそ、労働の場において自己肯定感が実現されるようにしなければならないわけである。では、どのようにして自己肯定感は労働の場において実現されるのかというと、それは即ち、労働者が自己肯定感のある職に就くこと及び自己肯定感を得ることのできる報酬を受け取るように出来るだけしていくことに依ると私は思う。

しかし、これらの実現は極めて難しいのも事実である。ドイツの偉大な社会学者、マックス・ウェーバー現代社会を全面的官僚制化の時代であると指摘した。全面的官僚制化と時代とは、集団は目的が明確であるほど、大規模であるほど組織化が進展するが、大規模化する集団は行政機構に限ったことではなく、あらゆる組織で行政機構と同じ論理で官僚制的な組織を発達させることになることを意味する。マックス・ウェーバーは官僚制組織を最も高度に組織化された合理的組織と捉えていたが、同時にその機能を妨げる逆機能が生じるとも指摘していた。逆機能が生じる原因には、規則万能主義(規則がすべてに優先する結果、目的と手段を転倒し、組織目的の達成よりもその手段たる規則への服従そのものが目的であるように錯覚すること)、職階制のデメリット(職階が上に行くほど自由裁量の権限が大きくなり、下の者は自由裁量の権限が小さく、そのために業務の効率性が低下すること)、分業制が招くセクショナリズム(どの部署が対応すべきか明確でない場合に「たらい回し」にされて、その解決が先送りにされてしまうこと)、成員のロボット化(私情を差し挟まないことが求められる結果、組織の成員がロボットのように感情と表情を失くすこと)、事務手続きの煩雑化(文書コミュニケーションが徹底される結果、それ伴う承認等に多くの時間と労力を必要としてしまうこと)がある。

そして全面的官僚制化の弊害は逆機能にとどまらず、官僚制の組織特徴はその成員のパーソナリティにも大きな影響を与える。マックス・ウェーバーはこれを「人間の化石化」、即ち人間は官僚制的組織を動かすための化石燃料に転落したと看破している。人間の化石化の特徴は、専門への引きこもり、ロボット化、能動性の喪失、責任感の喪失である。こうした特徴を見ればわかるように、「人間の化石化」は「人間疎外」の現象によるものと類似性がある。従って、全面的官僚制化の時代である現代社会において、「人間疎外」や「人間の化石化」から逃れて自己肯定感が実現されるようにすることは、極めて難しいのである。だが、そうであっても自己肯定感が実現される方向に近づいていけるようにしていくほかはないのではないだろうか。

今回の清水さんの騒動に話を戻すと、その特徴は分業化された構造が確立している芸能界において、そうであるにもかかわらず一方では古いイメージの芸能界の在り方を都合よく肯定することによって芸能事務所側に有利な構造が作り上げられているということではないか。清水さんが事務所(レプロエンタテイメント)に対する不満として主張した最大のものは、給与等待遇に関するものであった。彼女が新人の頃の月収は5万円ほどであったと伝えられている(ただし、直近の年収は1,000万円ほどだったと言われている)。また、今回の件とは直接的関係はないが、事務所によってはレッスン代やプロモーション費用をタレント本人に負担させることもあると聞く。こうした労働契約(労働契約という形をとってないかもしれないが、あえて労働契約とする)は通常では認められないものであり、不当である。それを芸能界は、「芸能界の慣習だから」という謎の伝統主義をもって正当化してきたのである。

いまや芸能界は昔と異なり、社会的地位は向上しその煌びやかさにより憧れの対象として認識されることも多くなった。一方、AKBグループの登場と成功によって芸能界が手近な存在として多くの若者に志望されるようにもなった。その両面が相まって、ぴんきり、有名無名の差はあれども芸能界に属する関係者の数は飛躍的に増加している。その現状が良いかどうかはともかくとして、相当に多くの人の人生を預かる立場になったわけだから、芸能界が自らの特殊性を主張して世間一般の規範とズレていることを正当化することはもはや許されないであろう。若者が純粋な気持ちで追いかける「夢」の甘美さを利用して若者の人生を搾取するようであってはならないのである。

最後に、一つの比較対象として同じ「夢」の世界であるプロ野球界について述べておく。プロ野球選手の平均年収(年俸)は約3800万円と言われている。また、最低保障年俸という制度があり、最低年収として440万円(一軍選手は1500万円、育成選手は240万円)が保障されている。平均勤続年数は約9年で、モード(最頻値)は約4年となっている。それに比べて芸能界は、先にも見たように清水さんほど売れていても約1000万円しか年収を得ておらず、新人の頃は約5万円の月収(年収換算で約60万円)だ。確かにプロ野球選手よりははるかに所属人数が多いだろうが、一方市場規模は芸能界は1兆円を超えると言われており、プロ野球界は約1400億円である。こうした比較データからすれば、プロ野球ほど高額な平均年収を支払えとは言わないまでも、せめて一定の年収額を最低保障するくらいのことは倫理として芸能界にあっても良いのではないだろうか。

 清水さんは芸能界という華々しい世界である程度の成功を収めながら、彼女のいう「ぺふぺふ病」から逃れることはできなかった。いままで述べてきたような芸能界の在り方が「人間疎外」や「人間の化石化」に若者を陥らせて、その救済が新興宗教にあるとするならば、これは現代人の悲しい宿命を表しているのではないだろうか。むろん、宗教は各人の自由ではあるのだけれども。