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小池都知事の野望

小池都知事の野望」

小池百合子都知事の勢いがとまらない。昨夏の東京都知事選挙からはや六か月が過ぎているが、その間ずっと小池都知事の話題はニュースショーを騒がせ続けた。年が明ければ勢いはやむとの大方の専門家、評論家の予想は外れ、「小池劇場」の閉幕はまだまだ先のように見える。少なくとも7月22日の東京都議会選挙までは続くだろうと、多くの人は思っているのではないか。

「小池劇場」とは、小池都知事を主人公とした「水戸黄門」のような政治劇だと言える。「水戸黄門」は庶民をいじめて利得を貪る悪代官や家老、時には大名さえも退治して世直しをするという勧善懲悪、予定調和な物語だが、「小池劇場」では「都議会のドン」と呼ばれる内田茂都議会議員が退治の対象とされた。小池都知事は、都知事選挙における怪文書(自民党議員が小池候補を応援した場合、一族郎党をも処分の対象とする旨を通告する文書)を逆手にとり、内田議員が都政を私(わたくし)して牛耳っていると喧伝して、内田議員を都政に係るすべての悪行の源泉であるかの如きイメージを国民に定着させることに成功した。同時に、内田議員が大きな影響力を持つ都議会自民党にも、内田議員を支える「悪の集団」であるとのイメージが持たれるようになった。その結果、大衆は小池都知事への支持に大きく傾き、小池都知事は政治運営への追い風を得てきた。そして現在、事実上退治されてしまった内田議員に代わる悪役として、石原慎太郎元都知事がターゲッティングされている状況だ。

だがしかし、内田議員や石原元都知事の実像は、マスコミが報道するほど悪の根源的な存在なのだろうか。長年にわたり政治の世界に身を置いた者の宿命として、有象無象の政治の世界ではきれい事だけではすまない場面も多々にして出くわすと考えるのが自然だ。従って、彼らがまったく身ぎれいな政治家であろうとは思わない。それは恐らく、「政界渡り鳥」と揶揄されるほどに政界遊泳術に長けた小池都知事も同様であろう。だが、単に(水戸黄門で退治される悪役のように)悪行の限りを尽くしてきただけの政治家が、はたして内田議員や石原元都知事のような存在になれるのであろうか。そのような常識で考えたとき、彼らの実像は功罪相半ばする政治家であったという評価が適切であろうし、特に内田議員は面倒見の良い調整型の典型的な地方政治家といったものなのではないだろうか(連日訪れるマスコミの大群に対して、内田議員は一度も反論をせずに無言を貫いた。この一種の「不器用さ」も普段はマスコミに晒されることのない地方政治家特有のものと言えるだろう)。マスコミの波状攻撃によって作り出される虚構に実像は覆い隠され、大衆は虚構を実像だと錯覚しているように思える。

シェイクスピアと同時代を生きたイギリスの哲学者、フランシス・ベーコンは、人間が錯誤に陥りやすい要因として四つのイドラ(「種族のイドラ(自然性質によるイドラ)」、「洞窟のイドラ(個人経験によるイドラ)」、「市場のイドラ(伝聞によるイドラ)」、「劇場のイドラ(権威によるイドラ)」)を指摘した。こうしたイドラによって人は如何に偏見に陥りやすいか、一度定着した思い込みが如何に強力であるかをベーコンは説き、真理に辿り着くにはこれらを取り除く必要があるとしている。内田議員や石原元都知事を都政に係る諸悪の根源と捉え、一方小池都知事を彼らを退治する正義の味方とする、善悪二元論的なマスコミ報道の在り方にはこうしたイドラは多分に含まれているのではないだろうか。

ところで、内田議員や石原元都知事に対して肥大化した悪者イメージをラベリングすることもそうだが、就任してから現在までを見る限り、小池都知事は勝利の為なら手段は選ばない傾向が強すぎるように思う。これは私見だが、2012年の自民党総裁選での「失敗」が、もともと勝利至上主義的傾向の強かった小池都知事をますます突っ走らせているように思える。

自民党が政権復帰直前にあった2012年の総裁選において、小池都知事は国民的人気が高いと見られていた石破茂候補を支持した。しかし、その石破候補との決選投票を制して総裁に選出されたのは安倍晋三候補(現首相)であった。小池都知事はもともと安倍首相と近かったはずで、なぜこのとき石破候補を支持したのかはわからない。時の権力者の側を渡り歩いてきた小池都知事のことだから、世論や情勢からして石破候補有利と読んだのかもしれない。あるいは、同じ防衛大臣経験者ということでなんらかの繋がりがあるのかもしれない(石破氏を支持する議員には防衛関係に接点のある者が多い)。

ただ、如何なる理由があろうとも小池都知事が負け馬に乗ってしまったのは事実で、政界の常ではあるが、女性初の総理大臣の座に最も近いと言われていた小池都知事は一転、いわゆる「冷や飯食い」の立場に置かれることになった。小池都知事が都知事選への出馬を決断した背景には、こうした不遇を打破しようというチャレンジがあったのは間違いないだろう。小池都知事にとって都知事選での勝利は起死回生の天恵であったが、しかも組織の力に頼らず大衆の熱い支持を得ての勝利であった。こうした経験を通じて、小池都知事には権力闘争の恐怖と甘美がより一層身に沁みたことであろう。そして小池都知事は、「二度と負けてはならない、敗北に意味はない」と直観したのではないだろうか。現在の小池都知事に見られる強烈な勝利への執念の起源は、ここにあるように私は思う。

 昔、政敵に対して「人民の敵」、「反革命」とのレッテルを貼り、権力奪還に成功した人物がいた。大躍進政策に失敗し失脚したのち、文化大革命という社会全体を巻き込んだムーブメントのうねりによって復権した毛沢東氏だ。毛沢東氏の権力志向の強さはつとに知られた話だが、私には毛沢東氏と小池都知事の姿はダブって見える。もし一連の「小池劇場」が小池都知事の権力復権のためのリベンジマッチだとするならば、最終的なゴールは毛沢東氏同様に国家のトップ、即ち総理大臣の座ではないだろうか。

総理大臣を狙うということは、現下の情勢ではかなりの確率で安倍首相と対決することになる。小池都知事がそのポジションに到るまで勢いを維持できるのか、それとも道半ばで失速して都知事という地位をもって政治家生命を終焉させるのか、それは誰にもわからない。ただ、可能性の有無、大小はともかくとして、小池都知事は「因縁の」安倍首相との対決を最終決戦と想定して、総理大臣の座を奪取することをモチベーションに終わりなき権力闘争を仕掛けているのだと私は確信している。そのような構図で見たとき、「小池劇場」や小池都知事のこれまでと今後が最も明快に理解できると思うからである。