安倍首相はエスタブリッシュメント?

「安倍首相はエスタブリッシュメント?」

昨年のアメリカ大統領選でトランプ候補(当時:現大統領)が訴えたことの一つは、エスタブリッシュメントの打倒でした。エスタブリッシュメントとは「社会的に確立した体制・制度やそれを代表する支配階級(ウィキペディア)」、「イギリスで言われ始めたもので、社会改革をはかろうとする者から攻撃される既存の社会秩序の総体(コトバンクのブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)」のこととされています。このエスタブリッシュメントの定義からいえることは、政治家や官僚、軍人といった公務員経験の一切ない異色の経歴を持つトランプ大統領はアメリカ社会、ひょっとすると国際社会をも含めた既存秩序のレジーム・チェンジを志向し、その支配階級と戦う意思を持った政治リーダーだということでしょう。

先週末、そのトランプ大統領就任後初の訪米をした安倍首相は、日米首脳間交流の歴史においてかつてないほどの歓待を受けました。ワシントンでの「19秒間の握手」に始まった日米首脳会談の共同声明では、尖閣諸島への日米安保条約第五条の適用が明文を以って確認されました。フロリダ・パームビーチにあるトランプ大統領所有の別荘「マール・ア・ラーゴ」に舞台を移しては、27ホールにわたる「ゴルフ外交」が展開されました。日米同盟がトランプ政権においても確固としたものであることが確認されたこと、首脳間の信頼関係が醸成され、それを内外へアピールできたことは大きな成果でありました。また、中国が野心を以って領有権を主張している尖閣諸島も日米同盟の抑止力の下にあることが明文化されたことは、中国を意識するなかで日米同盟を重視し強化するという近年の日本外交の積み重ねが結実したものとして、対トランプ政権云々を超えて評価されてしかるべきと言えるのではないでしょうか。

とは言いつつも、閣僚人事に係る連邦議会上院の承認が遅滞している為に、トランプ政権のキャビネットすら整っていない状況であったことは事実でありました。そうした影響及びトランプ大統領就任後初の首脳会談であったことからして、今回の首脳会談では具体的な政策についての意見交換は行われなかったようです。「麻生副総理=ペンス副大統領」という協議の枠組みは設定されたので、今後この枠組みのなかで具体的な政策、例えば通商・貿易や為替等について日米間交渉が展開されていくことになる見通しとなっています。今回の首脳会談は、先にあげたような大きな成果を得ながらも、どちらかというとお互いの人物(パーソナリティや思想、選好等)をお互いに鑑定し合うというところに主眼が置かれたものだったのだというのが、私の所感です。

さて、安倍首相訪米の概括と簡単な評価を行いましたが、それは本稿の主題ではありません。エスタブリッシュメント打倒を標ぼうするトランプ大統領と良好な関係を築いた安倍首相自身は、はたしてエスタブリッシュメントであるのか否かが本稿の主題なのであります。先日放送されていたとあるテレビ番組で、あるタレントが今回の首脳会談に関しての文脈で「安倍首相はエスタブリッシュメント」と発言していました。実を言うと、これまで私は安倍首相をエスタブリッシュメントだと思っていませんでした。同一人物に関する認識であるにも関わらず、あるタレントの方と私の認識は正反対のものであったわけです。どちらが間違っているかを言いたいのではありません。この認識のずれの原因を検討することによって、昨今喧しい「オルタナティブ・ファクト」についての一見解を示せるのではないかと思うのです。

まずはじめに、なぜ私が安倍首相をエスタブリッシュメントと認識していなかったかを述べたいと思います。周知の通り、安倍首相は父方、母方の家系ともに著名な政治家を持つという世襲政治家です。安倍首相の父方の祖父は、大政翼賛会に加入せず、翼賛選挙における激しい選挙妨害にあいながらもそれに反抗した安倍寛議員です。一方母方の祖父は、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監されながらも戦前・戦後と通じて権力の中枢にあり「昭和の妖怪」と異名された、安保闘争の敵役としても有名な岸信介元首相です(そして岸元首相の実弟沖縄返還や戦後最長政権を成し遂げた佐藤栄作元首相というのは、割と周知の話でしょう)。即ち、比較的リベラルな安倍家と保守・タカ派の印象の強い岸家(佐藤家)双方の血統を併せ持つのが、安倍晋三という政治家のルーツなのです。そしてこうした華麗なる家系図を見れば、やはり安倍首相はエスタブリッシュメントだという印象を持たれるかもしれません。

ただ、この家系図において本当に重要なのは、こうした血統から安倍首相は如何なる政治的遺産を引き継いでいるのかということです。1993年の衆議院議員選挙初当選以来、安倍首相は清和政策研究所(以下、清和会)という派閥に所属しています。清和会とはどういった派閥かというと、その系譜を遡った先には安倍首相の祖父、岸元首相に到ります。岸元首相の派閥である「十日会」を基本的には継承する形で福田赳夫元首相が形成したのが、清和会なのです。

福田元首相といえば、「昭和の黄門」を自称し自民党の歴史上最も激しい権力抗争である「角福戦争」において田中角栄元首相とシノギをけずった方です。そしてよく知られているように、福田元首相はほとんどの場合に敗北して涙を呑んできました。首相の座からもたった二年で、田中元首相の手によって引き摺り下ろされたのです(現職総理・総裁が総裁選で敗北したのは、自民党史上福田元首相が唯一)。従って吉田茂元首相率いた旧自由党の流れを汲む、木曜クラブ田中派)や宏池会(大平派)を中心とする「保守本流」に対して、清和会(福田派)を中心とする旧民主党鳩山一郎岸信介)の流れを汲む派閥は「保守傍流」と言われ、長年にわたり自民党内の非主流派に甘んじてきたわけです。

このように安倍首相は清和会のルーツに血脈(むろんお父様である安倍晋太郎外務大臣も含めて)を持ち、その背景があってこそ若い頃から周囲に期待され次々と要職を歴任し、戦後最年少の年齢で総理大臣の座まで登りつめたわけです(第一次安倍内閣)。だけれども清和会は先述のように「保守傍流」であり、自民党内という観点からはとてもエスタブリッシュメントとは言えない。田中内閣から森内閣に到るまでの間、すべての政権は田中派及びその後継派閥の協力なしに成立し得ないものでした。つまり、自民党内のエスタブリッシュメントは間違いなく「保守本流」、なかんずく田中派であったのです。そして私が安倍首相をエスタブリッシュメントではないと認識していたのは、こうした政治的系譜や背景に着目すればゆえのことだったのであります。

ただ、現在の自民党を見た場合、周知の通り清和会は第一派閥(最大勢力)です。これは小泉純一郎元首相による自民党内レジーム・チェンジの結果です。自民党への支持が地に落ちていた時、小泉元首相は「自民党をぶっ壊す」と言って登場しました。しかし、彼自身が自民党の総理・総裁なのだから、自民党全体を破壊するわけはありません。小泉元首相が言った「自民党」は即ち田中派のことであり、田中元首相が作り上げた政治システムのことだったのです。道路公団民営化や郵政民営化は、道路事業や特定郵便局田中派の強い影響下にあったがゆえ「小泉改革」の対象になったのだと思われます。

実際、小泉政権の約六年の間に旧田中派はその勢力・影響力を著しく減退して、一方小泉元首相の出身派閥である清和会は初めて第一派閥になったのです。そしてそれ以来、歴代総理・総裁は清和会の後ろ盾なくして成立していません。また、現在の安倍内閣が極めて安定した長期政権となっている理由の一つは、この清和会の優位にあるのです。つまり、現在の自民党の情勢で言えば清和会はもはや「保守傍流」と呼ばれるような非主流派ではなく、権力の中枢にある主流派に違いないのです。そういう前提に立てば、清和会の勢力を背景としている安倍首相はエスタブリッシュメントと言えるでしょう。

以上のように、自民党における伝統的な「保守本流・傍流」の枠組みに着目すれば安倍首相はエスタブリッシュメントではないということになりますし、同じ派閥に関する観点でも現在の権力関係に着目するならば、安倍首相はエスタブリッシュメントであるということになるのです。この他にも与党と野党、世襲議員と非世襲議員、政治家と一般庶民、首相とその他の人々等々、安倍首相がエスタブリッシュメントであるか否かについては様々な観点を採ることができます。そしてどの観点に立脚するかに応じて、その光景は変わったものになるはずです。

どの観点に立脚するかというのは一種の価値判断になります。また、どの光景も一つの事実であり、人は同時に複数の光景を認識することはできません。もし複数の光景を視座に置くとすれば、それはバラバラに認識した光景を結合させることによって初めて可能になることなのです。その結合に際して、どの光景にアクセントを置くかはその者が依って立つ価値観に影響されるのです。つまり、事実認識の前提には価値観が屹立しているのであり、その価値観によって様々な事実、時には正反対の事実さえも同時に成立し得ると言えるのではないでしょうか。このように考えるならば、昨今喧しい「オルタナティブ・ファクト」も何ら問題があるとは言えません。価値観によって事実認識が異なるならば、同一の現象に符合する事実も一つであるとは必ずしも言えなくなるからです。

最後に、安倍首相がエスタブリッシュメントであるか否かという問いには、次のように答えたいと思います。安倍首相はエスタブリッシュメントでありエスタブリッシュメントではない、それはどのような基準に依るのかという価値判断次第であると。常に事実は再生産され、変容し続けています。「オルタナティブ・ファクト」というキャッチ・フレーズに浮足立つのではなく、その事実認識がどのような価値観によって成立しているかを検討する方がはるかに意義があり、生産性のあることなのだと私は思います。