清水富美加「ぺふぺふ病」と人間疎外

2017年2月11日に突如として「出家」を宣言した清水富美加さんに関する話題が、最近のお茶の間を賑やかし続けている。17日には「全部、言っちゃうね」という告白本も出版されている。彼女の言動や周辺の動きは世間を驚かせ続けているが、本稿では一連の報道のなかで登場した「ぺふぺふ病」というものについて考えてみたい。

2016年12月8日に出版された清水さんのフォトエッセー「ふみかふみ」のなかに、「ぺふぺふ病」というタイトルのエッセーが収録されている。以下、そのエッセーを引用する。

<それは感情に起伏がなく これといった悩みもなく 余裕があるような というといいように聞こえるが ガムシャラな感じがなく やる気が感じられず 生きている感じがしない というと悪いように聞こえるが がんばっていないわけでもなく そして調子に乗っているわけでもなく そう、擬音にしたら ぺふぺふしているような状況の 一種の病>

一連の報道に際してこの文章に接した私は、瞬間的にある概念が脳裏に浮かんだ。20世紀の思想や国際政治におそらく最も大きな影響を与えた19世紀の哲学者、カール・マルクスが提唱した「人間疎外」である。人間疎外は、若い頃のマルクスがパリ滞在中に執筆した「経済学・哲学草稿」の第一草稿四節「疎外された労働」にそのエッセンスが表れている。このなかでマルクスは四つの疎外を指摘している。労働生産物からの疎外、労働に対するやりがいからの疎外、類的疎外、人間(他人)からの疎外の四つだ。これらに共通の現象はあらゆるものと「疎遠になること」であり、その結果「人間らしさ」を喪失していくということであろう。

むろんマルクスは「ルンペンプロレタリアート」という概念を提唱しており、それとプロレタリアート(賃金労働者階級)を明確に区別している。マルクスの言うルンペンプロレタリアートの定義自体は明確ではないが、ジプシーを想定していたと言われている。ジプシーとはヨーロッパに現れた移動型民族を指す語で、芸能や占い、魔術、ばくちなどで金を稼ぐ者が多かった。従って芸能界に所属していた清水さんは、マルクスの定義どおりのプロレタリアートではないだろう。だが、テレビ文化とともに急速な発展を続けてきた現在の芸能界は、その初期の頃とは異なり極めて分業化の進んだ構造となっている。そうした環境の中で、清水さんは芸能活動のすべてに対して疎遠(疎外)を感じたように私には思える。

ところで、昔の芸能界には就職で失敗した者や貧困のために学歴のない者、ルーティンワーク的労働に馴染めなかった者などといった、社会秩序の周縁的な存在を受け入れる役割を果たしている面があった。中世において「河原者(かわらもの)」と呼ばれた被差別民たちに能や歌舞伎といった伝統芸能の始まりがあることを考えれば、これは当然のことである。しかし、先述のように現在の芸能界はその成熟とともに分業化が進展しており、それに伴い高学歴者や裕福な家庭の出身である者といった、周縁的でない者が相対的に多くを占めるようになっているように思える。これは日本社会における周縁的な存在を受け入れる場の減少を意味し、格差の固定化を進行させる効果があると言えよう。身分制の時代でなくとも周縁的な存在は一定数発生するのであり、それを受け入れる余地のない社会はダイナミズムを喪失してしまうのではないだろうか。

それはともかく、人間疎外の現象から人間を解放するための方策としてマルクス共産主義の実現を主張した。人間疎外は資本主義社会特有のものだと、マルクスは考えたからである。しかし、共産主義を実現しようとしたソビエトをはじめとする社会主義諸国の実態から言えば、周知のとおり資本主義諸国以上の人間疎外を生じさせたというのがその帰結であった。従って、マルクスの解は人間疎外に無効であったと言えるだろう。だが、そうであるとしても人間疎外が無くなったわけではないのであり、なんらかの解決策を必要とするのには変わりないのである。

私は人間疎外を完全に解消する方法はないと思っている。ただ、いくらかそれによる苦しみを緩和する術はあるのではないかとも思っている。結局、人間疎外がなぜ人を苦しめるのかと言えば、あらゆるものと疎遠になることによる虚無感と社会の構造にがんじがらめにされていることによる無力感にあるように思える。この虚無感、無力感を緩和するためには、人が自己肯定感を持てるようにすることが必要なのではないか。

自己肯定感とは、その多くを「もうひとりの自分」、つまり自分を評価する自分による評価が満足できるものであるか否かに依存するものである。また、それに併せて他人や社会から承認されているかといった要素も複合的に絡み合い、自己肯定感の有無を形成している。人類の労働時間は近代を迎えて以来、飛躍的に増加してきた。従って、労働時間は現代人の人生の多くを占めるようになっている。つまり、それだけに労働の場における自己肯定感は人生全体における自己肯定感を左右する中心的存在となっている。そしてだからこそ、労働の場において自己肯定感が実現されるようにしなければならないわけである。では、どのようにして自己肯定感は労働の場において実現されるのかというと、それは即ち、労働者が自己肯定感のある職に就くこと及び自己肯定感を得ることのできる報酬を受け取るように出来るだけしていくことに依ると私は思う。

しかし、これらの実現は極めて難しいのも事実である。ドイツの偉大な社会学者、マックス・ウェーバー現代社会を全面的官僚制化の時代であると指摘した。全面的官僚制化と時代とは、集団は目的が明確であるほど、大規模であるほど組織化が進展するが、大規模化する集団は行政機構に限ったことではなく、あらゆる組織で行政機構と同じ論理で官僚制的な組織を発達させることになることを意味する。マックス・ウェーバーは官僚制組織を最も高度に組織化された合理的組織と捉えていたが、同時にその機能を妨げる逆機能が生じるとも指摘していた。逆機能が生じる原因には、規則万能主義(規則がすべてに優先する結果、目的と手段を転倒し、組織目的の達成よりもその手段たる規則への服従そのものが目的であるように錯覚すること)、職階制のデメリット(職階が上に行くほど自由裁量の権限が大きくなり、下の者は自由裁量の権限が小さく、そのために業務の効率性が低下すること)、分業制が招くセクショナリズム(どの部署が対応すべきか明確でない場合に「たらい回し」にされて、その解決が先送りにされてしまうこと)、成員のロボット化(私情を差し挟まないことが求められる結果、組織の成員がロボットのように感情と表情を失くすこと)、事務手続きの煩雑化(文書コミュニケーションが徹底される結果、それ伴う承認等に多くの時間と労力を必要としてしまうこと)がある。

そして全面的官僚制化の弊害は逆機能にとどまらず、官僚制の組織特徴はその成員のパーソナリティにも大きな影響を与える。マックス・ウェーバーはこれを「人間の化石化」、即ち人間は官僚制的組織を動かすための化石燃料に転落したと看破している。人間の化石化の特徴は、専門への引きこもり、ロボット化、能動性の喪失、責任感の喪失である。こうした特徴を見ればわかるように、「人間の化石化」は「人間疎外」の現象によるものと類似性がある。従って、全面的官僚制化の時代である現代社会において、「人間疎外」や「人間の化石化」から逃れて自己肯定感が実現されるようにすることは、極めて難しいのである。だが、そうであっても自己肯定感が実現される方向に近づいていけるようにしていくほかはないのではないだろうか。

今回の清水さんの騒動に話を戻すと、その特徴は分業化された構造が確立している芸能界において、そうであるにもかかわらず一方では古いイメージの芸能界の在り方を都合よく肯定することによって芸能事務所側に有利な構造が作り上げられているということではないか。清水さんが事務所(レプロエンタテイメント)に対する不満として主張した最大のものは、給与等待遇に関するものであった。彼女が新人の頃の月収は5万円ほどであったと伝えられている(ただし、直近の年収は1,000万円ほどだったと言われている)。また、今回の件とは直接的関係はないが、事務所によってはレッスン代やプロモーション費用をタレント本人に負担させることもあると聞く。こうした労働契約(労働契約という形をとってないかもしれないが、あえて労働契約とする)は通常では認められないものであり、不当である。それを芸能界は、「芸能界の慣習だから」という謎の伝統主義をもって正当化してきたのである。

いまや芸能界は昔と異なり、社会的地位は向上しその煌びやかさにより憧れの対象として認識されることも多くなった。一方、AKBグループの登場と成功によって芸能界が手近な存在として多くの若者に志望されるようにもなった。その両面が相まって、ぴんきり、有名無名の差はあれども芸能界に属する関係者の数は飛躍的に増加している。その現状が良いかどうかはともかくとして、相当に多くの人の人生を預かる立場になったわけだから、芸能界が自らの特殊性を主張して世間一般の規範とズレていることを正当化することはもはや許されないであろう。若者が純粋な気持ちで追いかける「夢」の甘美さを利用して若者の人生を搾取するようであってはならないのである。

最後に、一つの比較対象として同じ「夢」の世界であるプロ野球界について述べておく。プロ野球選手の平均年収(年俸)は約3800万円と言われている。また、最低保障年俸という制度があり、最低年収として440万円(一軍選手は1500万円、育成選手は240万円)が保障されている。平均勤続年数は約9年で、モード(最頻値)は約4年となっている。それに比べて芸能界は、先にも見たように清水さんほど売れていても約1000万円しか年収を得ておらず、新人の頃は約5万円の月収(年収換算で約60万円)だ。確かにプロ野球選手よりははるかに所属人数が多いだろうが、一方市場規模は芸能界は1兆円を超えると言われており、プロ野球界は約1400億円である。こうした比較データからすれば、プロ野球ほど高額な平均年収を支払えとは言わないまでも、せめて一定の年収額を最低保障するくらいのことは倫理として芸能界にあっても良いのではないだろうか。

 清水さんは芸能界という華々しい世界である程度の成功を収めながら、彼女のいう「ぺふぺふ病」から逃れることはできなかった。いままで述べてきたような芸能界の在り方が「人間疎外」や「人間の化石化」に若者を陥らせて、その救済が新興宗教にあるとするならば、これは現代人の悲しい宿命を表しているのではないだろうか。むろん、宗教は各人の自由ではあるのだけれども。

大統領令は本当に問題か?

「大統領令は本当に問題か?」

2017年1月20日に就任したドナルド・トランプアメリカ合衆国第45代大統領は、歴代の大統領と同じく矢継ぎ早に政策方針の転換を行った。アメリカ大統領選挙の二大政党制のもとに明確な対立軸を以って争うという性質からすれば、政権交代に伴う至極当然な成り行きなのであって、ここになんら問題はない。「行政の継続性」という概念に縛られて一種の伝統主義に陥り、政治のダイナミズムを喪失している日本からすれば奇異に映ったり驚いたりするのかもしれないが、アメリカでは通常のことである。ちなみに、トランプ大統領が就任後発令した大統領令数について、日本のマスコミは「異例のペース」などと報道したが、実際は前任のバラク・オバマ大統領の就任直後のペースと比べてもそれほど多くはない。

ただ、歴代の大統領の場合と大きく異なるのは、トランプ大統領に対する反対運動が大統領選挙終了後も継続しており、その槍玉に1月27日に署名・発令した大統領令があげられていることだろう。この大統領令は第13769号「Protecting the Nation From Foreigh Terrorist Entry into the United States」とタイトルのついたものであるが、「特定の懸念がある」七か国の国民の90日間の入国禁止措置と米国難民認定プログラムを120日間停止する(ただしシリア難民に関しては無期限の受け入れ停止)措置が定められている。トランプ大統領は、この大統領令を「国家安全保障のために必要な措置」だと主張している。そして、厳格な入国管理制度を構築するまでの暫定的な措置であるともしている。

この大統領令が発令されるやいなや、反対する声がアメリカ内外からあがった。また、大統領令が抽象的な文章で綴られていたために、空港をはじめとする入国管理の現場では一定の混乱が生じた。そもそも入国管理は現場の裁量に任される部分の大きいものではあるが、事前の根回しや附則の不存在に見られる準備不足が混乱を大きくした面は否めないだろう。従って、混乱についての結果責任はトランプ大統領にある。だが、この大統領令に反対する意見については、それらに根拠があるものと言えるか非常に疑問がある。

著名なハリウッド女優、アンジェリーナ・ジョリーのように長年難民問題に取り組んできた人たちとは異なり、多くの人々の注目と焦点は入国禁止措置に合わせられている。従ってここでは、入国禁止措置に限って論じていく。まず、入国禁止という措置についてであるが、これ自体は国家の裁量権に委ねられると国際慣習法において認められている。実際運用上の事例としても、日本は北朝鮮国籍の者の入国を禁止しているし、イスラエルイスラム中東諸国は相互に入国禁止措置を採っている。このイスラム中東諸国の中には、むろん今回入国禁止措置の対象に指定された国々(イラク、イラン、シリア、イエメン、リビアスーダンソマリア)の一部も含まれている。つまり、入国禁止措置自体を非難することは難しいということになる。

次に、入国禁止の対象として七か国を指定したことについてであるが、これに対しては大きく二つの非難が浴びせられている。宗教・人種の差別だというものとテロ対策としての効果がないというものだ。そして宗教・人種の差別だという非難については、司法の場において主張がされている。ワシントン州が大統領令を違憲だとして提訴したが、これに対してワシントン州の連邦地裁は大統領令の一時差し止めの司法処分を下した。これを受けた連邦政府(トランプ政権)はこの司法処分に不服として控訴したが、カリフォルニア州の連邦控訴裁は控訴を棄却した。

ここで間違えてはならないのは、連邦控訴裁において争われたのは連邦地裁が下した司法処分の適否についてなのであって、大統領令自体の適否ではないということだ。大統領令自体はこれから争われることになる。ただ、今回の司法処分が適当なものであるかに関しては、私は疑問に思っている。この大統領令は「国家安全保障」を名目に発令されたわけだが、司法処分を出した判事は当然にして国家安全保障に関しての情報も知見も有していない。国家安全保障は行政府の専権であり、それに関する情報のほとんどすべてを行政府が握っているのだから、これは当然のことだ。逆に言えば、連邦地裁は国家安全保障の観点をまったく顧みずに、一時的であるとはいえ、行政府の執行命令である大統領令の効力や目的を毀損、阻害する司法処分を下したということになる。審議を経た上での判決によって大統領令を無効にすることは、三権分立からして当たり前のことでなんら問題はない。しかし、一判事の裁量に基づく司法処分によってこれほど重大な大統領令の効力を一時停止することは、三権分立や国家安全保障に無配慮で軽率な判断だったと言えるのではないだろうか。

そもそも、大統領令の英語原文には、入国禁止の対象にされた七か国の国名は登場しない。大統領令全文で国名が登場するのはシリアのみだが、これはシリア難民の無期限受け入れ停止の文脈で登場するのであって、入国禁止の文脈ではない。七か国が入国禁止の対象になったのは、オバマ政権において変更されたビザ免除プラグラムに係る規制の対象国をそのままスライドさせたからと見られる。2015年12月、超党派議員立法によってビザ免除プログラムを変更する法案を可決、オバマ大統領もこれを支持して署名、成立させた。この法案は、2011年3月以降に特定の国に渡航したことのある者にビザ免除を認めなくするものであり、ここでいう特定の国とは、法律制定当初に指定されたイラク、イラン、シリア、スーダンの四か国に、2016年2月に追加指定されたリビアソマリア、イエメンの三か国を併せた計七か国のことである。大統領令による入国禁止七か国とまったく同じ国々となっている。

ビザ免除プログラムを変更する法律による規制の対象となった七か国は、国内でテロ組織が大きな影響を及ぼしている、もしくはテロリストをかくまっていると見なされたためにその規制対象となった。このオバマ政権下における政治判断を、発足間もないトランプ政権は入国禁止の大統領令に引き継いだわけである。これは政権発足間もないという現実からして当然の判断だと思うが、少なくともこの七か国の選出にトランプ大統領及び政権独自の見解や判断の反映があったようには思えない。従って、入国禁止の大統領令における七か国の指定に差別的色彩があるとは言えないし、もしあるとするならば、非難されるべきはオバマ大統領であってトランプ大統領ではないことになる。

また、別の観点から見ても、入国禁止の大統領令における七か国の指定に差別的色彩があるとは言えない。人種や宗教の差別だと言うならば、「特定の」人種や宗教が差別されていなければならない。七か国の人種や宗教はバラバラで、そこに共通項はないと言える。単純な人は「イスラム教の国々ではないか」と言うかもしれないが、それはイスラム教に無知で十把一絡げにして見るからそういう考えになるのであって、大きく見てもスンニ派シーア派の対立は十字軍以来のイスラム教とキリスト教の対立よりも古く、根深い対立なのである。従って、イスラム教に共通項を見出して入国禁止の大統領令を差別だとするのは、相当に無理があると私は思う。人種で見ればアラブ人あり、ペルシャ人あり、黒人あり、少数部族ありというもので、とてもじゃないがここに共通項はない。以上より、入国禁止の大統領令における七か国の指定には、差別的色彩がないことがはっきりしたと思う。

大統領令による入国禁止にはテロ対策の効果がないとの指摘がある。これは先述の差別ゆえ違憲論よりは、実際的な議論だと言える。確かに、2001年9月11日の同時多発テロ事件以降のアメリカにおけるテロ実行犯を見ればサウジアラビア人などが多く、七か国の国民は皆無である。だが、テロ対策の対象は現在及び将来なのであって、過去の事例を以って七か国の国民にテロリズム実行の危険がないとは言えない。同時多発テロ事件以来はや15年が過ぎているが、この間にテロリズムの在り方は大きく変容してきた。そして多くのテロが、アメリカを中心とした世界規模での陰に陽にの活動によって未然に防がれていることだろう。この実態は、我々一般の人々が確認することはできない。そしてこれ(一種のテロ未遂分)を確認できない以上、どこにテロリズムの危険があるかという判断(危険認定)は、国家安全保障の専権を預かる行政府に委託信任するしか方法がないのである。

また、入国禁止の大統領令の目的は入国禁止自体にあるわけではない。厳格な入国管理制度の確立までの「暫定的な」措置として、短期間の制限付きで入国禁止は行われているものである。この程度(短期間)の措置であるならば、行政府に与えられた権利と責務からして裁量権の範囲として認められる水準のものではないだろうか。即ち、テロ対策の効果の有無を真剣かつ慎重に検討すべき対象は、入国禁止という暫定措置ののちに現れる新しい入国管理制度であるべきなのだ。新しい入国管理制度は恒常的なものになるはずだからである。一時的な措置ならば、テロ対策としてある程度の蓋然性があればそれは許容されるべきで、完全な証明が求められるわけでもないと言えるだろう。

以上見てきたように、入国禁止の大統領令は、それほど間違ったものであるようには思えないものである。そもそも大統領選挙のときから、トランプ大統領は主にインターネット・メディアを活用して既存メディアと対立する傾向にあった。対立候補であったヒラリー・クリントン候補に比べて、トランプ大統領の既存メディアへの広告出展は圧倒的に少なかった。アメリカにおいては、既存メディアはもう既に多くの人からの信頼を失っている。トランプ大統領は、クリントン候補や彼女を応援する既存メディアをエスタブリッシュメントであり不当に利益を得ている人々だと主張した。そしてエスタブリッシュメント対反エスタブリッシュメントという二項対立的な対立軸を明確に提示し、社会やメディアといった諸々の既存秩序に不満を持つ人々を惹きつけ、選挙戦における勢いに変えていったのである。このような広報手法を採ったためもあり、既存メディアとの対立構図は激烈なものとなっている。

そうした因縁もあってか、どうもマスコミ報道はトランプ大統領に対してバイアスのかかった姿勢をとり、トランプ大統領の行うことはすべて悪いこと、めちゃくちゃなことだというイメージをラベリングしようとしているように見える。それにトランプ大統領も過剰反応して、既存メディアとトランプ大統領の対立が深まっていく負のスパイラルに陥っていると言えるだろう(スパイラルなのだから、どちらがスタートなのかを論じることは無意味だ)。そうした環境の中で、入国禁止の大統領令は既存メディアによるトランプ大統領攻撃の恰好の標的にされた感がある。そういった背景も考慮に入れた上で、入国禁止の大統領令の適否を冷静に判定する必要があると私は思っている。

 

石原元都知事の戦略

「石原元都知事の戦略」

連日ニュースショー等で取り上げられ続け、すっかり国民的関心事と化した豊洲市場の問題だが、それに関連して築地市場豊洲移転を最終決定した石原慎太郎元都知事が記者会見を行うのか、それとも行わないのかといった話題がテレビ等で取り上げられていた。大方の評論家は記者会見を行わないほうが良いのではないかという見解を述べ、記者会見は実際には行われないのではないかとまで言う評論家も散見された。

これについて私は、少々のくだらなさを感じつつも、記者会見は行われるだろうし、行ったほうが良いと考えている。記者会見をする、しないは、本人が行うと言っている以上、待っていればいずれわかることなのだから、それを云々することにニュース・バリューがあるとは私には思えない。昨日から今日にかけて一部報道にあった「記者会見中止」は、私の理解が正しければすべて読売系列(読売新聞、日本テレビ、スポーツ報知)によって報じられたものである。これはおそらく「思惑報道」であり、誰かがなんらかの思惑をもって報道させたものであろう。石原元都知事は「記者会見を中止する」などは一切発言していないのであり、これをもって「ブレてる」かの如きイメージを人々に与える報道は、どこか悪意のあるように見える。

マスコミ報道に対する疑問はこれくらいにして、問題はなぜ私は記者会見を行うべきだと考えるかということだ。結論から言ってしまえば、記者会見を行うことで一方的に報道されてきた小池百合子都知事寄りの情報に反駁できるからである。昨夏の都知事選以来、「小池劇場」の主役、小池都知事の一挙手一投足を追う報道が異常と思えるほどの分量でなされてきた。その「小池劇場」の最初の敵役に設定されたのは内田茂都議会議員であった。内田議員のお膝元で争われた先日の千代田区長選挙において、小池都知事の支援する現職の石川雅己候補と内田議員及び都議会自民党の支援する与謝野信候補が対決した「代理戦争」に、内田議員は惨敗した。この結果、内田議員の政治生命は事実上終わったものとされ、いつ引退を表明するのかということに焦点が絞られている。「小池劇場」第一幕は閉幕したのである。

「小池劇場」第二幕における敵役は、おそらく石原元都知事なのだろう。善悪二元論的に敵と味方に分類し、敵を徹底的に悪とすることによって浮力を得てきたのが小池都知事である。「小池劇場」の観客動員に憎たらしい敵役は欠かせないのだ。内田議員は小池都知事にとって理想的な敵役であった。典型的な地方政治家である内田議員は、その見た目や経歴、言動からして人々の想像を掻き立てるのにぴったりな存在だった。そしてなによりも、内田議員はそれまでの彼のキャリアの中でほとんどマスコミ報道に晒されてこなかった人であり、従って連日押し掛けてくるマスコミに対して内田議員は一切の反論をしないままに口をつむり続けた。これによって小池都知事は、ほぼ一方的に、内田議員及び都議会自民党を悪役に仕立て上げることに成功したのである。

それに比べて石原元都知事は、有名な小説家で弟に国民的スターを持つタレント政治家的な気質を備えた人物である。彼はマスコミに晒されることに慣れており、少々行き過ぎることもあるが基本的には舌鋒鋭く意見を表明し、大きな支持を得てきた政治家である(石原元都知事は四選しているが、これは鈴木俊一元都知事と並んで歴代最多だ)。どこか性質としては、「ワールドビジネスサテライト」のキャスターを務め、女性政治家として、華のある政治家として常に光のあたる存在であり続けた小池都知事と似通ったところがある。内田議員と小池都知事ならば対照的な存在同士であるから「小池劇場」の構図もはっきりしたものになったのだが、石原元都知事と小池都知事の構図ではいわばスター同士の対決となるから、耳目は引く戦いだけれども、石原元都知事は内田議員のときほどあっさりと悪役にはなってくれないと思うのが自然であろう。

来月には東京都議会において、石原元都知事らを参考人招致することが決まっている。参考人招致では、都議会議員が質問して参考人が答弁する形式となる。そして現在流通している豊洲市場を巡る情報が小池都知事の側に寄ったもの(石原元都知事は今まで一切具体的な発言をしてこなかったのだから当然だ)になっている以上、石原元都知事が記者会見をもし行わないのならば、世間は小池都知事寄りの情報のみを頭に置いたうえで参考人招致の質疑応答の光景を見ることになる。それは認知バイアスとして石原元都知事に不利な状態のままで参考人招致に臨むことを意味するのであって、石原元都知事にとって賢明な選択とは言えないのではないだろうか。ゆえに私は、石原元都知事は参考人招致よりも以前に記者会見を行うべきだと考えるのである。

評論家の中には、石原元都知事が感情的に記者会見をすると発言したのだという旨の分析をする者がある。しかし、私はそうは思わない。むしろ、石原元都知事は冷静に情報・資料収集や根回しを行い、対決すべきタイミングを計ってきたのではないだろうか。石原元都知事は高齢であり、出来ることならば勢いに乗る小池都知事との対決は避けたかっただろう。そういった心境や体調が相まって、「弱気」に見えたのかもしれない。ただ、石原元都知事は本質的にはファイターであり、闘争になるほど元気になってくるタイプの人に見える。「小池劇場」は敵役を不可欠で内田議員を敵役とする第一章が終幕した以上、自らを敵役とする第二幕の開幕が不可避だという状況認識は石原元都知事にもあるだろうから、準備もある程度完了した石原元都知事は腹を括って戦いの場にでる決心をしたように私は思うのである。「強気」ははったりではなく、冷静さを喪失したのでもなく、ある程度の自信が現れたものだと私は素直に思っている。

そもそも今回の豊洲市場を巡る騒動は、日本の戦後政治史において人々の耳目を引いてきた事象と大きく異なる点がある。日本で注目を集めてきた政治的事象は主として「政治とカネ」と呼ばれるものであった。小池都知事の誕生のきっかけとなった舛添要一前都知事のスキャンダルでは、政治資金の使途において公私混同が問題視された。猪瀬直樹元都知事においては、徳洲会グループからの資金提供が問題となった。遡ればロッキード事件リクルート事件、佐川急便事件等々、戦後日本政治史を彩る出来事は金銭スキャンダルが驚くほど多い。そしてこういう場合において証人喚問や百条委員会の「脅し(欠席は出来ず、虚偽答弁には罰則がある)」は効いてきたのだし、当事者はそれを避けたがったのである。

対照に今回の豊洲市場における石原元都知事や関係者は、おそらくだが豊洲市場を巡って利得を手にしてはないだろう。私がそう思う最大の理由は、豊洲市場の40ヘクタールの土地(もともとの所有者は東京ガス)の取得価格の安さだ。マスコミ報道によると、豊洲市場の土地取得費用は578億円とされている。この土地は40ヘクタール、即ち40万平米であり、それで578億円を割ると1平米あたり約15万円弱となる。対して2016年度の東京都全下の平均公示地価は1平米あたり約90万円弱、東京23区となると1平米あたり約130万円となっている。これらからして、少なくとも豊洲市場の土地が不当に高値で売買されたことは考えにくいのである。

ここで私が疑問に思うのは、なぜ東京ガス江東区という好立地にある豊洲市場の土地をこれほどの安値で東京都に売却したのかということだ。東京都の都心部はほぼ開発され尽くしており、新たな埋立地の余地も東京湾にはもうない。そのような状況の中で豊洲にある40ヘクタールものまとまった土地は、この上ない価値があるはずである。あらゆるディベロッパーが欲しがる虎の子の土地と言えるだろう。実際、東京ガスは当初、この土地の売却を渋ったようだ。それを石原元都知事の腹心であった濱渦武生元東京都副知事東京ガスとの交渉役に任命され、「水面下の交渉」によって進展し始めたのだと言われている。この「水面下の交渉」、そしてその後の交渉模様については明らかにされる必要がある。

ただ、土地の売却等を巡っての金銭のキックバックなどを可能にするのは、通常よりも「高値」で取引された場合であるのが普通だ。しかし今回の豊洲市場の土地の売買は、先述のとおり公示地価からして、通常よりも「安値」で取引されたと考えるべきだろう。そうである以上、石原元都知事や関係者がこの売買において利得を手にした可能性は限りなく低いのではないだろうか。そしてもしそうであるならば、これだけのバッシングに遭っている石原元都知事にとって隠しだてする必要のあることは何もなく、記者会見や参考人招致の場で包み隠さずありのままに話すことになんら不利益はないのである。従って、石原元都知事が記者会見や参考人招致から「逃げる」必要は(現在判明している事実からは)どこにもなく、むしろ口をつぐんでいることは内田議員の二の轍を踏むことでありデメリットしかないのである。

ここからは、豊洲市場問題に関して参考になるであろう話を少し述べておく。まずはじめに、豊洲市場の土地の取得費用がなぜこれほど安いのかということについてだ。東京都が資産を取得する場合、東京都財産価格審議会によってその価格は決定される。この審議会が578億円という取得費用を決定したのだが、これは推測だが、おそらく課税評価額を参考にしたのではないかと思っている。豊洲市場の土地は東京ガスの工場跡地だから、工業用地の指定を受けているだろう。そうした関係で、実勢価格よりもはるかに安いと思われる取得価格となったのではないか。

また、豊洲市場の土地の売買に際して、なぜ瑕疵担保責任を売主である東京ガスに負担させなかったのかという疑問が世間では言われている。だが、私が思うに、東京ガスからすればこれほど安値で売却したにも関わらず瑕疵担保責任まで負えば、それは売却ではなく譲渡になってしまうのではないか。実際、当初の見通しの甘さももちろんあるが、豊洲市場の土地の汚染対策費は売買価格に匹敵する(試算で約860億円)ほどかかっている。そのような取引は、東京ガスが民間企業である以上、株主への背信となってしまうだろう。瑕疵担保責任を負わなければ売却価格の増額と事実上なるわけだから、東京都という公共団体との取引に係る特殊性(先述の審議会によって価格が決定される)からの抜け道的なやり方として、実勢価格に近づける一つのテクニックとして採られたとしても不思議ではないのではないだろうか。

 

小池都知事の野望

小池都知事の野望」

小池百合子都知事の勢いがとまらない。昨夏の東京都知事選挙からはや六か月が過ぎているが、その間ずっと小池都知事の話題はニュースショーを騒がせ続けた。年が明ければ勢いはやむとの大方の専門家、評論家の予想は外れ、「小池劇場」の閉幕はまだまだ先のように見える。少なくとも7月22日の東京都議会選挙までは続くだろうと、多くの人は思っているのではないか。

「小池劇場」とは、小池都知事を主人公とした「水戸黄門」のような政治劇だと言える。「水戸黄門」は庶民をいじめて利得を貪る悪代官や家老、時には大名さえも退治して世直しをするという勧善懲悪、予定調和な物語だが、「小池劇場」では「都議会のドン」と呼ばれる内田茂都議会議員が退治の対象とされた。小池都知事は、都知事選挙における怪文書(自民党議員が小池候補を応援した場合、一族郎党をも処分の対象とする旨を通告する文書)を逆手にとり、内田議員が都政を私(わたくし)して牛耳っていると喧伝して、内田議員を都政に係るすべての悪行の源泉であるかの如きイメージを国民に定着させることに成功した。同時に、内田議員が大きな影響力を持つ都議会自民党にも、内田議員を支える「悪の集団」であるとのイメージが持たれるようになった。その結果、大衆は小池都知事への支持に大きく傾き、小池都知事は政治運営への追い風を得てきた。そして現在、事実上退治されてしまった内田議員に代わる悪役として、石原慎太郎元都知事がターゲッティングされている状況だ。

だがしかし、内田議員や石原元都知事の実像は、マスコミが報道するほど悪の根源的な存在なのだろうか。長年にわたり政治の世界に身を置いた者の宿命として、有象無象の政治の世界ではきれい事だけではすまない場面も多々にして出くわすと考えるのが自然だ。従って、彼らがまったく身ぎれいな政治家であろうとは思わない。それは恐らく、「政界渡り鳥」と揶揄されるほどに政界遊泳術に長けた小池都知事も同様であろう。だが、単に(水戸黄門で退治される悪役のように)悪行の限りを尽くしてきただけの政治家が、はたして内田議員や石原元都知事のような存在になれるのであろうか。そのような常識で考えたとき、彼らの実像は功罪相半ばする政治家であったという評価が適切であろうし、特に内田議員は面倒見の良い調整型の典型的な地方政治家といったものなのではないだろうか(連日訪れるマスコミの大群に対して、内田議員は一度も反論をせずに無言を貫いた。この一種の「不器用さ」も普段はマスコミに晒されることのない地方政治家特有のものと言えるだろう)。マスコミの波状攻撃によって作り出される虚構に実像は覆い隠され、大衆は虚構を実像だと錯覚しているように思える。

シェイクスピアと同時代を生きたイギリスの哲学者、フランシス・ベーコンは、人間が錯誤に陥りやすい要因として四つのイドラ(「種族のイドラ(自然性質によるイドラ)」、「洞窟のイドラ(個人経験によるイドラ)」、「市場のイドラ(伝聞によるイドラ)」、「劇場のイドラ(権威によるイドラ)」)を指摘した。こうしたイドラによって人は如何に偏見に陥りやすいか、一度定着した思い込みが如何に強力であるかをベーコンは説き、真理に辿り着くにはこれらを取り除く必要があるとしている。内田議員や石原元都知事を都政に係る諸悪の根源と捉え、一方小池都知事を彼らを退治する正義の味方とする、善悪二元論的なマスコミ報道の在り方にはこうしたイドラは多分に含まれているのではないだろうか。

ところで、内田議員や石原元都知事に対して肥大化した悪者イメージをラベリングすることもそうだが、就任してから現在までを見る限り、小池都知事は勝利の為なら手段は選ばない傾向が強すぎるように思う。これは私見だが、2012年の自民党総裁選での「失敗」が、もともと勝利至上主義的傾向の強かった小池都知事をますます突っ走らせているように思える。

自民党が政権復帰直前にあった2012年の総裁選において、小池都知事は国民的人気が高いと見られていた石破茂候補を支持した。しかし、その石破候補との決選投票を制して総裁に選出されたのは安倍晋三候補(現首相)であった。小池都知事はもともと安倍首相と近かったはずで、なぜこのとき石破候補を支持したのかはわからない。時の権力者の側を渡り歩いてきた小池都知事のことだから、世論や情勢からして石破候補有利と読んだのかもしれない。あるいは、同じ防衛大臣経験者ということでなんらかの繋がりがあるのかもしれない(石破氏を支持する議員には防衛関係に接点のある者が多い)。

ただ、如何なる理由があろうとも小池都知事が負け馬に乗ってしまったのは事実で、政界の常ではあるが、女性初の総理大臣の座に最も近いと言われていた小池都知事は一転、いわゆる「冷や飯食い」の立場に置かれることになった。小池都知事が都知事選への出馬を決断した背景には、こうした不遇を打破しようというチャレンジがあったのは間違いないだろう。小池都知事にとって都知事選での勝利は起死回生の天恵であったが、しかも組織の力に頼らず大衆の熱い支持を得ての勝利であった。こうした経験を通じて、小池都知事には権力闘争の恐怖と甘美がより一層身に沁みたことであろう。そして小池都知事は、「二度と負けてはならない、敗北に意味はない」と直観したのではないだろうか。現在の小池都知事に見られる強烈な勝利への執念の起源は、ここにあるように私は思う。

 昔、政敵に対して「人民の敵」、「反革命」とのレッテルを貼り、権力奪還に成功した人物がいた。大躍進政策に失敗し失脚したのち、文化大革命という社会全体を巻き込んだムーブメントのうねりによって復権した毛沢東氏だ。毛沢東氏の権力志向の強さはつとに知られた話だが、私には毛沢東氏と小池都知事の姿はダブって見える。もし一連の「小池劇場」が小池都知事の権力復権のためのリベンジマッチだとするならば、最終的なゴールは毛沢東氏同様に国家のトップ、即ち総理大臣の座ではないだろうか。

総理大臣を狙うということは、現下の情勢ではかなりの確率で安倍首相と対決することになる。小池都知事がそのポジションに到るまで勢いを維持できるのか、それとも道半ばで失速して都知事という地位をもって政治家生命を終焉させるのか、それは誰にもわからない。ただ、可能性の有無、大小はともかくとして、小池都知事は「因縁の」安倍首相との対決を最終決戦と想定して、総理大臣の座を奪取することをモチベーションに終わりなき権力闘争を仕掛けているのだと私は確信している。そのような構図で見たとき、「小池劇場」や小池都知事のこれまでと今後が最も明快に理解できると思うからである。

 

安倍首相はエスタブリッシュメント?

「安倍首相はエスタブリッシュメント?」

昨年のアメリカ大統領選でトランプ候補(当時:現大統領)が訴えたことの一つは、エスタブリッシュメントの打倒でした。エスタブリッシュメントとは「社会的に確立した体制・制度やそれを代表する支配階級(ウィキペディア)」、「イギリスで言われ始めたもので、社会改革をはかろうとする者から攻撃される既存の社会秩序の総体(コトバンクのブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)」のこととされています。このエスタブリッシュメントの定義からいえることは、政治家や官僚、軍人といった公務員経験の一切ない異色の経歴を持つトランプ大統領はアメリカ社会、ひょっとすると国際社会をも含めた既存秩序のレジーム・チェンジを志向し、その支配階級と戦う意思を持った政治リーダーだということでしょう。

先週末、そのトランプ大統領就任後初の訪米をした安倍首相は、日米首脳間交流の歴史においてかつてないほどの歓待を受けました。ワシントンでの「19秒間の握手」に始まった日米首脳会談の共同声明では、尖閣諸島への日米安保条約第五条の適用が明文を以って確認されました。フロリダ・パームビーチにあるトランプ大統領所有の別荘「マール・ア・ラーゴ」に舞台を移しては、27ホールにわたる「ゴルフ外交」が展開されました。日米同盟がトランプ政権においても確固としたものであることが確認されたこと、首脳間の信頼関係が醸成され、それを内外へアピールできたことは大きな成果でありました。また、中国が野心を以って領有権を主張している尖閣諸島も日米同盟の抑止力の下にあることが明文化されたことは、中国を意識するなかで日米同盟を重視し強化するという近年の日本外交の積み重ねが結実したものとして、対トランプ政権云々を超えて評価されてしかるべきと言えるのではないでしょうか。

とは言いつつも、閣僚人事に係る連邦議会上院の承認が遅滞している為に、トランプ政権のキャビネットすら整っていない状況であったことは事実でありました。そうした影響及びトランプ大統領就任後初の首脳会談であったことからして、今回の首脳会談では具体的な政策についての意見交換は行われなかったようです。「麻生副総理=ペンス副大統領」という協議の枠組みは設定されたので、今後この枠組みのなかで具体的な政策、例えば通商・貿易や為替等について日米間交渉が展開されていくことになる見通しとなっています。今回の首脳会談は、先にあげたような大きな成果を得ながらも、どちらかというとお互いの人物(パーソナリティや思想、選好等)をお互いに鑑定し合うというところに主眼が置かれたものだったのだというのが、私の所感です。

さて、安倍首相訪米の概括と簡単な評価を行いましたが、それは本稿の主題ではありません。エスタブリッシュメント打倒を標ぼうするトランプ大統領と良好な関係を築いた安倍首相自身は、はたしてエスタブリッシュメントであるのか否かが本稿の主題なのであります。先日放送されていたとあるテレビ番組で、あるタレントが今回の首脳会談に関しての文脈で「安倍首相はエスタブリッシュメント」と発言していました。実を言うと、これまで私は安倍首相をエスタブリッシュメントだと思っていませんでした。同一人物に関する認識であるにも関わらず、あるタレントの方と私の認識は正反対のものであったわけです。どちらが間違っているかを言いたいのではありません。この認識のずれの原因を検討することによって、昨今喧しい「オルタナティブ・ファクト」についての一見解を示せるのではないかと思うのです。

まずはじめに、なぜ私が安倍首相をエスタブリッシュメントと認識していなかったかを述べたいと思います。周知の通り、安倍首相は父方、母方の家系ともに著名な政治家を持つという世襲政治家です。安倍首相の父方の祖父は、大政翼賛会に加入せず、翼賛選挙における激しい選挙妨害にあいながらもそれに反抗した安倍寛議員です。一方母方の祖父は、A級戦犯として巣鴨プリズンに収監されながらも戦前・戦後と通じて権力の中枢にあり「昭和の妖怪」と異名された、安保闘争の敵役としても有名な岸信介元首相です(そして岸元首相の実弟沖縄返還や戦後最長政権を成し遂げた佐藤栄作元首相というのは、割と周知の話でしょう)。即ち、比較的リベラルな安倍家と保守・タカ派の印象の強い岸家(佐藤家)双方の血統を併せ持つのが、安倍晋三という政治家のルーツなのです。そしてこうした華麗なる家系図を見れば、やはり安倍首相はエスタブリッシュメントだという印象を持たれるかもしれません。

ただ、この家系図において本当に重要なのは、こうした血統から安倍首相は如何なる政治的遺産を引き継いでいるのかということです。1993年の衆議院議員選挙初当選以来、安倍首相は清和政策研究所(以下、清和会)という派閥に所属しています。清和会とはどういった派閥かというと、その系譜を遡った先には安倍首相の祖父、岸元首相に到ります。岸元首相の派閥である「十日会」を基本的には継承する形で福田赳夫元首相が形成したのが、清和会なのです。

福田元首相といえば、「昭和の黄門」を自称し自民党の歴史上最も激しい権力抗争である「角福戦争」において田中角栄元首相とシノギをけずった方です。そしてよく知られているように、福田元首相はほとんどの場合に敗北して涙を呑んできました。首相の座からもたった二年で、田中元首相の手によって引き摺り下ろされたのです(現職総理・総裁が総裁選で敗北したのは、自民党史上福田元首相が唯一)。従って吉田茂元首相率いた旧自由党の流れを汲む、木曜クラブ田中派)や宏池会(大平派)を中心とする「保守本流」に対して、清和会(福田派)を中心とする旧民主党鳩山一郎岸信介)の流れを汲む派閥は「保守傍流」と言われ、長年にわたり自民党内の非主流派に甘んじてきたわけです。

このように安倍首相は清和会のルーツに血脈(むろんお父様である安倍晋太郎外務大臣も含めて)を持ち、その背景があってこそ若い頃から周囲に期待され次々と要職を歴任し、戦後最年少の年齢で総理大臣の座まで登りつめたわけです(第一次安倍内閣)。だけれども清和会は先述のように「保守傍流」であり、自民党内という観点からはとてもエスタブリッシュメントとは言えない。田中内閣から森内閣に到るまでの間、すべての政権は田中派及びその後継派閥の協力なしに成立し得ないものでした。つまり、自民党内のエスタブリッシュメントは間違いなく「保守本流」、なかんずく田中派であったのです。そして私が安倍首相をエスタブリッシュメントではないと認識していたのは、こうした政治的系譜や背景に着目すればゆえのことだったのであります。

ただ、現在の自民党を見た場合、周知の通り清和会は第一派閥(最大勢力)です。これは小泉純一郎元首相による自民党内レジーム・チェンジの結果です。自民党への支持が地に落ちていた時、小泉元首相は「自民党をぶっ壊す」と言って登場しました。しかし、彼自身が自民党の総理・総裁なのだから、自民党全体を破壊するわけはありません。小泉元首相が言った「自民党」は即ち田中派のことであり、田中元首相が作り上げた政治システムのことだったのです。道路公団民営化や郵政民営化は、道路事業や特定郵便局田中派の強い影響下にあったがゆえ「小泉改革」の対象になったのだと思われます。

実際、小泉政権の約六年の間に旧田中派はその勢力・影響力を著しく減退して、一方小泉元首相の出身派閥である清和会は初めて第一派閥になったのです。そしてそれ以来、歴代総理・総裁は清和会の後ろ盾なくして成立していません。また、現在の安倍内閣が極めて安定した長期政権となっている理由の一つは、この清和会の優位にあるのです。つまり、現在の自民党の情勢で言えば清和会はもはや「保守傍流」と呼ばれるような非主流派ではなく、権力の中枢にある主流派に違いないのです。そういう前提に立てば、清和会の勢力を背景としている安倍首相はエスタブリッシュメントと言えるでしょう。

以上のように、自民党における伝統的な「保守本流・傍流」の枠組みに着目すれば安倍首相はエスタブリッシュメントではないということになりますし、同じ派閥に関する観点でも現在の権力関係に着目するならば、安倍首相はエスタブリッシュメントであるということになるのです。この他にも与党と野党、世襲議員と非世襲議員、政治家と一般庶民、首相とその他の人々等々、安倍首相がエスタブリッシュメントであるか否かについては様々な観点を採ることができます。そしてどの観点に立脚するかに応じて、その光景は変わったものになるはずです。

どの観点に立脚するかというのは一種の価値判断になります。また、どの光景も一つの事実であり、人は同時に複数の光景を認識することはできません。もし複数の光景を視座に置くとすれば、それはバラバラに認識した光景を結合させることによって初めて可能になることなのです。その結合に際して、どの光景にアクセントを置くかはその者が依って立つ価値観に影響されるのです。つまり、事実認識の前提には価値観が屹立しているのであり、その価値観によって様々な事実、時には正反対の事実さえも同時に成立し得ると言えるのではないでしょうか。このように考えるならば、昨今喧しい「オルタナティブ・ファクト」も何ら問題があるとは言えません。価値観によって事実認識が異なるならば、同一の現象に符合する事実も一つであるとは必ずしも言えなくなるからです。

最後に、安倍首相がエスタブリッシュメントであるか否かという問いには、次のように答えたいと思います。安倍首相はエスタブリッシュメントでありエスタブリッシュメントではない、それはどのような基準に依るのかという価値判断次第であると。常に事実は再生産され、変容し続けています。「オルタナティブ・ファクト」というキャッチ・フレーズに浮足立つのではなく、その事実認識がどのような価値観によって成立しているかを検討する方がはるかに意義があり、生産性のあることなのだと私は思います。